旧伊藤博文金沢別邸

 旧伊藤博文金沢別邸は、横浜市金沢区の野島公園の中にあり、明治31年(1898年)に初代内閣総理大臣の伊藤博文公により建築されました。
 建築後の明治33年(1899)は東宮(皇太子)の行啓、同41年(1907)は韓国皇太子が来訪されており、伊藤公没後も大正5年(1916)の天皇行幸を筆頭に、その後も継続して皇族が来訪しており、明治憲法ゆかりの地として建築された伊藤博文公別邸として、建物の歴史上の価値をよく物語っています。
 歴史的価値から平成18年11月1日に横浜市指定有形文化財に指定されました。しかし、建物の老朽化が激しかったため、平成19年より解体工事・調査を行い、平成20年6月より工事に着手し、平成21年10月31日に現存しない部分を含め創建時の姿に復元。庭園整備とともに完成して一般公開されました。
 明治期に金沢区は東京近郊の海浜別荘地として注目され、第4代・第6代内閣総理大臣の松方正義や、大蔵大臣・外務大臣等を務めた井上馨、日本画の大家川合玉堂などが別邸を設けました。この旧伊藤博文別邸は当時の別荘地の数少ない貴重な建築遺構です。
 伊藤博文は、金沢周辺に2つの別邸を建てました。ひとつは、この野島に建てたもの。もうひとつは、夏島(現在、横須賀市)に建てたものです。夏島の別邸は、金沢の旅館「東屋(あずまや)」とともに憲法の草案づくりが進められたところとして有名です。
 金沢・野島に建築された別邸は、伊藤博文が風光明媚な金沢の地を好んで建てたといわれ、大正天皇や韓国皇太子なども訪れました。また、当時金沢は、この地だけでなく富岡などにも多くの政治家や文化人の別邸がありました。

  園 内  
 
  園内マップ  
 旧伊藤博文金沢別邸は創建当時、客間棟(客間・客用便所)、居間棟(居間・湯殿・便所)、台所棟(玄関・台所・水屋)の3棟で構成されていました。居間棟の湯殿、台所棟の玄関・水屋(新築復元範囲)は、既に壊されて残っていませんでしたが、調査資料を基に復元しました。格式の高い客間棟を海側の最も眺望の良い位置に張り出し、各棟を雁行形に並べ、廊下で繋いでいます 
台所棟 別邸の玄関で、調理場・水屋などが設けられていました。来客時には、地元の割烹より仕出をとっていたそうです。
客間棟  博文公存命の時から、天皇、皇太子をはじめ、皇族の来邸があり、この客間棟で過ごしたと思われます  
居間棟 日常の生活をする棟です。多忙な博文公にとって安らぎの場所だったのでしょう。  
水屋 湯殿     

  邸 内   
 
邸内マップ 
 
  入口 フィリノシラン 
   玄関 小6疊    
廊下  廊下から台所棟・客間棟を望む 
調理場   座り流し 水屋  
二段戸棚  台所棟 3疊 台所棟 4疊半  
 客用便所 
   
中庭 
畳敷き廊下 客間棟  晴嵐の間 12疊   
帰帆の間 12疊半   
帰帆の間から海を望む 博文邸喫茶 抹茶・和菓子付
帰帆の間  欄間 電球 




内縁
  畳敷き廊下  廊下   
    流し と畳敷き廊下 
居間棟  秋月の間 8疊  居間棟 夕照の間 8疊  
文久3年(1863)5月12日
横浜港から井上馨と伊藤博文がペガサス号で出航した様子を示した額
夕照の間からぼたん園を望む   内縁  
夕照の間 欄間
湯殿  脱衣場   湯殿 サワラ材の木製箱型風呂
便所    明治42年11月4日、
伊藤博文の葬儀の様子 
伊藤博文 明治41年(1908)
大磯の庭園
晩年の伊藤博文 

明治31年(1898)
大磯の蒼浪閣の庭で、
左が大隈重信
右が伊藤博文
 

別邸の庭で 
襖の引き手金具    
秋月・夕照の間 帰帆の間   晴嵐の間 その他 

ぼたん園
 
尾山篤二郎 野島歌碑
 枯山も温とましげに靄籠り 安らやすらと暮れゆかんとす